創立80周年記念誌等より「卒業生の思い出」

創立80周年(昭和56年)の記念誌等から記事を転載します。

音楽編

校歌に誇りを

校歌に誇りを(高女二十九回 村井悦子)

 校歌に誇りを赤石山の峯たかく天竜川の水清し…………
 創立以来八十有余年歌い継がれて来た、風越の校歌は、作詞伊沢修二、作曲小山作之助、伴奏譜下総皖一となっています。そのそうそうたる顔ぶれに驚かれた方は少くないと思います。
 伊沢修二先生は高遠出身、東京音楽学校(現芸大)の初代校長で紀元節(建国記念日)の作曲者。小山作之助先生は同校教授で勅語奉答歌の作曲者です。(以前には元旦、紀元節、天長節などは国の祝祭日と云われその日は礼服で先生生徒が学校に出て式を行いましたが、その時に必ず歌われたのが君が代とこの勅語奉答歌でした)伴奏譜の下総皖一先生は同校教授で戦後、東京音楽学校と東京美術学校が合併されて東京芸術大学となって学長は美術部と音楽部で交替に当る制度となった時、音楽部からの初代学長をされた方で和声学の大家。多分この様に日本に於ける第一人者の作詞作曲のものには「それ相応の方の伴奏譜を。」と云うことで、戦後になって下総先生に依頼されたものと思います。戦前には伴奏譜はなく音楽教師が和声学にのっとって自分でつけていました。
 時代の変遷と共に歌詞には多少のずれが出ていますが、曲は簡素にして品があり、さすが大家の作の校歌と云えます。又、毎年市立の校歌として歌われています追手町小学校のは、浅井洌作詞、福井直秋作曲となっていますが、前者は「信濃の国」の作詞者。後者は武蔵野音楽学校の創立者であり、初代校長だった方です。
 こうして見ると、飯田の町は昔から文化水準の高い町だったと云えましよう。

(昭和63年3月発行東京支部だより「かざこし」第8号より)

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紙の鍵盤

紙の鍵盤(風越四回 塩沢綾子)

 四十年も遠い書の事なので大分記憶も薄れていますが、その中で最も印象に残っている事は、当時音楽の先生は金子先生でしたが、テストの中に実技があり、課題曲をピアノで弾く事でした。
 音楽室の裏に、オルガンの置いてある小部屋が四室程あり、テストの前になると運が良ければそのオルガンで練習出来ますが、大半の人は紙に印刷された鍵盤の上で、指の動きを練習したものです。
 テストの日が来ました。皆神妙に課題曲を弾きました。Kさんの番になった時、彼女は「私は、この曲しか弾けません」と宣言して、当時流行していた、岡晴夫の歌「憧れのハワイ航路」-晴れた空、そよぐ風-のメロディを弾き初めたのです。クラス中が唖然としました。なんと勇気があるなあと変な感心もしました。でも大変なショックでした。
 この事は、四十年経った今でも昨日の事のように鮮明に覚えています。その時、先生の執られた態度は全く記憶にありませんが、今考えれば、そのKさんは個性的だったのかも知れません。.
 終戦間もない頃で、学校内には割と自由の空気が漲っている時代でした。
 当時は、月に一回位、全生徒講堂に集まり、クラシック音楽の鑑賞をしました。聞き終った後に、作曲者と曲名を用紙に書き提出しました。今でいう曲当てクイズのような事でしたが、その事がクラシック音楽に馴染む大きな動機になった事は否めない事実です。
 あの頃は、有名な音楽家も大勢来飯され、音楽会、演奏会等よく開かれました。山田耕作、高木東六、大谷冽子、諏訪根自子、砂原美智子、巌本真理、日書楽団・・等、草深い伊那谷にも文化の香りは運ばれ、音楽活動はとても活発なものでした。
 他校でも演奏会が開かれ、今の飯田高校へ夜の演奏会を聞きに行きました。その時、即興で天竜川をイメージに、ピアノ演奏されました。おだやかな天竜とあばれ天竜のコントラストが実に鮮やかに表現され、感心して聞き入りました。文化に飢えていた遠い書の思い出です。飯田地方の音楽活動が盛んだったのは、金子先生の力に負う所が大きかったのではないかと患います。
 七年程前に東京の同窓会に出席され、ピアノを演奏された金子先生のお姿が、つい昨日の事のように思い出されますが、今は、亡き人となられました。
 ご冥福をお祈り致します。

(昭和63年3月発行「東京支部だより」第8号より)

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出会い「ドリコのセレナーデ」

出会い「ドリコのセレナーデ」(風越七回 北原成子)

 私が最初に生の音楽に接したのは、風越高校の体育舘での講習会に参加した時のことです。講師はテノール歌手として名高かった奥田良三先生で「ドリコのセレナーデ」や北原白秋の詩による「から松」等を指導して下さったように記憶しています。風越高校の音楽部の方や、音楽の先生方の中で、山からでてきた(当時上久堅村に住んでいました)中学生の私は、ただただとまとうばかりでした。しかし、持ち合わせているわずかな音楽感覚を最高速度にめくらせて、一緒に歌えた時、こんなすばらしい世界があるのかと思いました。講習会のあとで先生が「千曲川旅情の歌」など歌って下さり、身も心も全部ひきこまれてしまいました。伴奏者として一緒に来られた金沢和孝先生は、色白、スマートで都会的でそれまでにちょっと見たことのないタイプの方でした。ベートーヴェンの「月光の曲」を弾いて下さいました。ピアニストの姿を初めて見て、その後しばらくはそのことしか頭になく、心が地上にないような不思議な気分でした。
 翌年の春、あこがれの風越高校に入学しました。新しくてモダンな音楽堂での山下千鶴先生の授業は感動の連続でした。美しく澄んだソプラノの声、すてきなファッション、ピアノ伴奏をきれいに弾いて下さって、最初に歌った歌はシューベルトの「楽に寄す」でした。三年間に、オペラのアリアに至るまで、いくつ歌を教えていただいたことか、当時の教科書は変色していますが、私の宝物として時々出しては、歌っています。
 コーラスコンクールが年に一度あり、各級が課題曲と自由曲を猛練習しました。各教室の窓々から歌声が着き合い、うるさくもほほえましい風景でした。わが級は、優勝とまではいかないまでも、かなりな成鍵だったように、都合よく記憶しています。私はその後、信大教育学部に入学しましたが、風越高校の音楽がいかに進んでいたか、いろいろな面で感じました。一番ピアノに燃えていた時期です。山下先生に高校の三年間レッスンをしていただいたことは感謝にたえません。
 遠山谷のある小学校に就職し、四方山水画のような自然の中で、音楽を通して子供達の可愛さに心ゆくまでふれることができました。一斉に私に向けられたきらきらした瞳を思うだけで、今でも心が洗われるようです。
 現在、まだ音楽と身近な生活ができるのは本当に幸せです。現代っ子とピアノに触れ、市民コーラスで歌い、このところ、いろいろな種類の音楽が好きになっていくようです。
 二人の子供に恵まれましたが、やはり音楽好き、私の乏しい技量はいつの間にがはるかに越され、面倒を見てもらいながら奏でているこのごろです。
 昨年夏高校二、三年の担任であった荒井昇一先生を長野県大町市にたずね、青木湖畔で合唱しました。コーラスコンクールの時の「希望のささやき」と校歌を。三十年経ても、皆殆んど忘れすに覚えていて、胸が一杯になりました。
 あの歌、この歌、それぞれになつかしい人の顔や、風景が浮んできて、三十年の月日がゼロになってしまいそうです。

(昭和63年3月発行「東京支部だより」第8号より)

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シューマンの調べ

シューマンの調べ(市立九回 尾崎美和)

 音楽会の思い出と云えば、二年生の時、年に一度の音楽会が、盛大に商業学校の講堂で開かれました。
 桜井昇先生の御指導のもとに、小学校、高等科の音楽の先生方、又市内にお住いの音楽好きの方々があ集りになり、バイオリンあり、ビオラ、フルートも加えての伴奏は大変豪華でした。一年生は「五月のよろこび」二年生は「流浪の民」(シューマン曲)女声三部合唱を発表いたしました。無我夢中で唱い終ってほっとした事をおぼえています。
 今でもラジオから、「ぶなの森の葉陰くれに-」と歌声が流れて来ると大変なつかしいあの頃の事を思い出します。
(昭和63年3月発行「東京支部だより」第8号より)

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バッジ・校章編

怒られて嬉しかったこと

怒られて嬉しかったこと(高女44回(昭和21年3月卒))

 準備教育の時、工場にいくようになったら学校のパッチを取れと言われました。受入式の出発の時も言われました。半分程はバッチを、いやいやながら取りました。半分程は頑張って着けたまま受入式にのぞみました。私は取った仲間です。着けていたかった、取りたくて取ったのではありません。
 式が終って校長先生も社長さんも軍の管理官も皆まだそこに居られたのですが、黒須先生がつかつかと私達の前へ出て来られて、あの得意の大声で「バッチを着けていない生徒が居るが誰の許しを得て取った。バッチは君達が飯田高女の生徒である証拠である。パッチを取りたかったら退学届を出してから取れ」と恐ろしい見幕で、おっしゃいました。恐ろしかったが胸がスーットしました。
 怒られて喜しかったのはあの時だけです。それからは会社の人達もバッチを取れとは言わなくなりました。

(創立八十周年記念誌「風越山を仰いで」より)

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ひめゆりの校章の考案者

ひめゆりの校章を草案 今短歌にもえる(近藤総子)

 風越高校のあのひめゆりの校章を誰がデザインしたか、ご存じでしょうか。
 できることなら七十周年記念号で創案した方をご紹介したかったのです。しかし旧姓「三浦さん」というだけで全く手がかりがなく、あれこれ調べてみたものの結局わからずじまいでした。それだけに総会返信はがきの一枚に「校章を創案したのは実は私です。」の一文を見つけた時の会報係の喜びは一入でした。
 その方は風越四回生の近藤総子さんでした。
 九月末というのに強い日ざしが照りつける昼下がり、下町情緒の残る南千住の一角にあるお宅でお話をうかがいました。
 昭和二十二年の三月、中国の大連からご両親とともに引き揚げて来られた近藤さんは、その年の四月に運よく県立高女の二年に編入できたそうです。戦後まもないこの頃は、さまざまなドラマがあった時代でした。飯田の大火がおこったのも、同じ年の四月二十日でした。常盤町から昼出火、ちょうどお花見で留守の家が多く、強い風にあおられてたちまち燃え広がり、飯田の街はあっという間に灰の山になってしまいました。幸い上飯田にあった近藤さんの家は焼けずにすみましたが、生まれて初めて火事のすごさを知ったそうです。学校は四月には火事の片づけをし、五月からやっと授業ができるようになりました。
 風越四回生は学校改革の影響を一番受けた学年でした。旧制高女が二年間、西高併設中学が一年間、新制高校では飯田高校でも風越高校(当時は東高と西高)でも選択することが出来、近藤さんはじめ三〇名程が飯田高校へ移りました。西高になった折に現在の風越高校の校章の公募があったそうです。近藤さんはにこにこと笑いながら「今だから言いますが、実は父との共同制作だったんですよ。」と秘密を打ち明けて下さいました。お父様は雅号を三浦晃古といい、昭和十五年まで飯田中学で美術の教師をしていらっしゃったとか。お二人の協力で見事な校章の図案が出来上がったというわけです。お父様は八十二歳で二十年前に他界された由。なつかしそうにお父様を偲んでおられました。「その頃、学校に購買部があり、便箋の上に校章が入ったものを売っていたんです。それを見るのが本当に嬉しかったものです。」と温かいお人柄をにじませながら思い出を語って下さいました。その後名古屋大学の大学院を出られて高校教師となり、名古屋でお仕事をなさっていましたが、結婚して三人のお子さんに恵まれたことにより、専業主婦として家事に専念された時期もありました。
 御主人様の転勤で東京に来られてから再び社会科(地理)の講師として十五年間勤務、現在は神奈川大学の研究室に週一回通っていらっしゃいます。
 お仕事を続けながら趣味として昭和五十四年頃から短歌を作りはじめ、「林間」「白鳥」の両歌会に所属、歌の道を極めてこられました。そしてこのたび歌集「花時計」を出版されました。美術大を出られた息子さん御夫妻が表紙絵、装画、装丁を担当、御家族の全面的な協力を得て、近藤さんのこれまでの歌の集大成ともいえるすばらしい作品集です。その中の代表作
 
 人生に後戻りなし おおらかに
    時を刻まな わが花時計

 戦後の混乱期の中でも、自分を見失うことなく、いつも前向きに歩んでこられた近藤さん、わが校の校章の創案者は、人生の名デザイナーでもありました。

(飯田風越高校同窓会 東京支部だより「かざこし」第20号より)

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著名人編

わたしの母校(岸田今日子)

わたしの母校(岸田今日子)

 終戦をはさんで二年間、私は姉と一緒に、飯田市の効外にある農家にあずけられて、飯田高女へ通いました。当時の学生生活は、およそその言葉の意味から遠かったようです。工場への学徒動員.油をとるための松の根掘り(注…当校ではしなかった)農繁期には、人手の足りない農家の手伝い、病院での看護実習、ことに終戦までの一年ほどは教室に座っている時間はなかったくらいです。今校歌を思い出そうとしてみても「天竜川の水清し」という最初の一節しか出て来ません。
 飯田は信州の中では南にあって、わりに気候もおだやかで、それは方言にも現われています。松本の方では「さようなら」の事を「あばよ」と言いますが、飯田では「あばな」となり「ごめんなさい」が「かんな」と言うふうに、柔かい言回しが多いのです。私達姉妹のような「疎開児童」は、早く皆の仲間はずれにならず遊んでもらえるように、一生懸命方言を使ったり、クツをゲタにはきかえたりしたものです。
 飯田高女は白いヘチマ衿の紺の上衣と紺のモンペがその頃の制服でしたが、モンペの方は縞や、かすりでもよくて、おしゃれな人は相当派手なモンペをはいていました。でも一体に質実型で髪の毛は後で二つに分けてゴムで結ぶ事に定まっていました。結んだ所から一握り以上の長さがあると「不良」という事になるのです。私は腰まであったおさげを切るのが惜しくて、この規則を恨みました。ほとんど学校に行けなかった二年間でしたから、校舎等についての記憶はあまりありませんが、何人かの忘れられない先生や友人たちはあります。
 スポーツはそんなに盛んに出来なかったころですけれど、私は前からあこがれていた弓を習いはじめました。的に当る事よりも、あの古典的なふんいき、折り目正しい作法、矢が弓を離れる、あの何とも言えない瞬間が私をひきつけ、早朝や放課後、私にしては熱心に習いました。黒須先生という理科の先生が弓道四股で教えて下さるのでしたが、私は理科というものが世にも苦手なのです。決していいかげんに聞いているつもりはないのですが、全く頭にはいらないので、それまではあきらめていたのでした。
 でも弓を習いはじめてから、好きな黒須先生の時間なので、何とかして出来る生徒になりたいと思うようになりました。けれどその効果は全く現われず、教室ではやっぱり叱られてばかりいました。黒須先生は色が黒くてメガネをかけてがっちりした、とても男性的な先生で、ことに弓を教えて下さる時は、理科の時間の事など、一言もおっしゃらないのがとてもうれしかったのです。そしてとうとう初段の検定に受かった時は、有頂天になって写真屋へ行って、ハチマキ姿で写真を写しました。
 同級生たちは最初のうちは疏開して来た私を少し敬遠しているようでしたが勉強も出来ず、働く事も不器用なので、安心して友達になってくれました。開墾(注…原文は松の根掘り)に行った時、マメばかり作ってちっとも掘れないでいると、私の分まで掘ってくれて、二人分かついで帰ってくれるような、アネゴ的な友達も出来ました。Nさんと言う人で、女学生にしてはちょっと色気が有りすぎるような派手な美人だったので皆から「不良」と言われているようでした。私が彼女と親友になると国語の若い男の先生は「朱に交われば赤くなる」という、古風なたとえを使って忠告して下さいました。でも私は彼女が好きだったので、どうしても今まで通りつき合うといい張りました。中略、あの混乱期に、余り机の上の勉強は出来なかったけれど、のんびりと山に囲まれて過した事を、なつかしく、よかったと思っています。

(創立八十周年記念誌「風越山を仰いで」より)

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ときめきインタビュー(藤本ひとみ)

ときめきインタビュー(藤本ひとみ)

 西洋史への深い造詣と緻密な取材に裏打ちされた、ロマン溢れる作品で読者を魅了している作家の藤本ひとみさんをお訪ねしました。魅力的で気さくなお人柄と、お仕事への筋の通った生き方に感銘を受けました。
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 「逆光のメディチ」「ハブスプルクの宝剣」など、ロマンあふれた時代の物語を中心に、これまで、小説だけでも六十数冊の本を出されている作家藤本ひとみさん(風越二十二回生、千葉県八千代市在住)にお逢いして、魅力的なお話しをうかがいました。

-お生まれになったのはどちらですか?-
 市内の江戸浜町です。小学校は浜井場小です。丸山小の廃校に伴って、一年だけ追手町小で、二年から学区が変わりましたので浜井場小でした。

-飯田の思い出はありますか?-
 たくさんあります。高校卒業までいたものですから。小さな頃の記憶の方がはっきりしているのです。自分の基本的なものができたのは飯田だと思っています。幼稚園は慈光幼稚園でしたが、幼稚園の頃から小学校位までは、とても体が弱かったので、今年は進級できるかな、という感じでした。四年生の時は入院もしました。中学になり、四十分位歩いて東中に通うようになってから健康になりました。小学校の頃は、伊勢湾台風とか、花火工場の爆発などがあったのが記憶に残っています。小学校五、六年の時の先生が、教育家としてすごくすぐれていた方で、いろいろな経験をさせて下さったので、楽もい思い出がたくさんあります。

-その頃熱中したものは何でしょうか-
 小学校の頃は本が好きで、浜井場小学校の図書室の本は全部読みました。体が弱かったので、外で遊ぶと風邪をひくとか、けがをするとか言われ、あまり外に出してもらえなかったのです。ですからお友達も少なく、しぜんと一人で過ごす時間が長くて、本を読むようになりました。学校の図書室から毎日借りて帰り、二、三冊読んで、あくる日返し、朝授業が始まる前に図書室に行き、お昼休みも図書室に行き、放課後も図書室に行き、下校時に又二、三冊借りて帰ったものでした。でも、小学校四年の時、先生から、お前の感想文を県展に出すので、この本を読んで感想文を書いて来いと言われ、下さった本があり、夏休みにそれを読んだのですが、あまりにも面白くないので、感想文が書けず、それ以来、感想文を書くのがきらいになりました。それで、ずっと読むだけで、書くことはしなかったのですが、中学三年の時、はじめて小説みたいなものを書いて、その頃あった「中三コース」などの雑誌に投稿したのです。自分のことを書いた、わりとシュールな感じのものだったのですが、それは掲載されました。

-風越に入られて、印象に残っていることはありますか
 文化祭の時、学校食堂の出入口に美術部が人魚の絵を二枚貼ったのですが、家庭科の先生が、それを破ってしまったのです。それで全校集会が開かれ、美術部長が「私が一生懸命書いた絵を、明日から文化祭だというのに、破ってしまわれたのは納得できないから説明していただきたい」ということになり、女の先生がお二人来られて、「人魚は水商売を象徴するものだから、勤勉なわが校の文化祭にはふさわしくない」と言われた、ということもありました。又、三年の時、コーラスコンクールで優勝したのですが、そこに行くまでに、指揮者が泣いたり、というようなこともありました。

-この道に進まれるのに、ご両親の影響はありましたか-
 父母よりも、祖父から影響を受けました。作家になりたいというのは、誰にも内緒にしていましたので、ひとからアドバイスをもらったり、励ましを受けたということはないのですが、祖父が画家でしたので、毎日絵を描いている姿を見て、創造するということの基本を、何となく学んだ気がします。

-高校卒業後、東京に出て来られた頃のことをお話し下さい-
 出版社の近くに居たかったので、東京に出なくてはと思い公務員として勤めました。一人っ子でしたので、母から、すぐ、帰って来るように言われました。でも、東京に居たかったので、東京の人と結婚したのです。
 結婚しても、養ってもらおう、という気持ちはなく、自分のことは自分で、という気持ちでやってきました。書く修業はしていましたが、それが売れるかどうかわからないので、とりあえず収入の道は確保していようと思っていました。

-そのあたりの事を、ご主人さまは、しっかりご理解下さっていたのですね-
 自分のじゃまにならなければよいというスタンスだったように思います。共働きですので、家事と仕事とで大変でした。子どもが生まれてからはさらに大変でした。
 官舎が津田沼にあり、主人の勤務先は江戸川でしたから近くて良いのですが、私は杉並でしたので、朝は早く起きて朝ごはんを作り、自分と主人のお弁当を作り、子供の保育園の延長保育のお弁当を作り、仕事が終って、帰りは、保育園に迎えに行き、夜八時過ぎに家に着いて、それから夕食を作るという生活でした。
 夜中の三時位まで書いているのですが、主人がマージャン友達を連れてきたりするとおつまみを作り、灰皿を取り替え、氷を出したりと、そういうことが大変でしたね。

-いよいよデビューされたのが、コミック雑誌の原作だったそうですね-
 原画の原作でした。それは私の本来やりたいものではなかったのですが、少しでも作家方向に近い仕事を、とりあえずしてみようと思いました。そのあと、ジュニア小説に移りました。ただ、デビューするには賞を取ることが必要でしたので、作品を作って応募し、選考に残って二回落ちて、三回目でコバルトノベル大賞をいただき、ジュニア小説のデビューということになってゆきます。ちょうどジュニア小説のブームで、読者も多く、ファンレターがたくさん来て、幸運な時期と重なりました。それを八年位しましたが、ジュニア小説ばかり書いているうちに、だんだんストレスがたまるので、並行して少年ものを書いたりもしました。しかし、ジュニアという限られた世界にむかっての小説よりも、やはり普通のものを書きたいと思いました。そして「ブルボンの封印」を新潮社から出しました。それからはずっと歴史物を中心に書いてきました。

-フランス革命前後の物語が多いようですが-
 その頃の時代に興味があるのです。価値観が大きく変動しますので、きのう信じていたものが、もう今日は違う、きのうまでトップに立っていた人が今日は処刑されたりといった、そういう大きな変動の中で、人間とか女性はどのように生きてきたのか、という例を見るのも楽しいですし、その中に、自分が作った主人公を入れて、彼なり、彼女なりが、どう、困難を乗り越えていくのか、それを作っていくのも楽しいのです。

-現地取材は、どのようになさるのですか-
 子供たちは、同居している母(高女四十三回生)に預けていくのですが、あまり長くはまかせられないので、多くは、子供を連れての取材です。ですから、三月や八月の休みしか行かれません。又、子供たちにとって、長いのは疲れますので、だいたい一週間から十日を、フルに取材してきます。

-あらかじめ、よく調べた上で行かれるのですか-
 そのつもりで行くのですが、けっこう資料が間違っていたりして困ることもあります。今までは運が良かったですね。ここはだめだったけれど、こちらにもっと良いものがあった、とか、偶然に、いろんなものが手に入ったりしたこともありました。

-外国では、言葉の問題はどうしているのですか-
 友達がフランス大使館に勤めているので、彼女にフランス語のテープを作ってもらい、夜寝る時とか、お風呂の時とか、お化粧を落とす時とか、常にフランス語のテープを聞いています。

-小説家としての修業というのは、具体的にどのようなことなのですか-
 ただひたすら書くのみです。そして、自分で読み返して、また書き換える、といった、ただ一人だけの作業をしてきました。

-フランスを中心とした歴史小説をずっとお書きになって来られましたね-
 多分、これからもそれを中心にして、時々他のものを入れて行くつもりです。一つはサイコサスペンスで、もう一つは日本のものです。最新作では、四十代の女性の自己の確立をテーマとした小説「変態」を出しました。

-どのような視点で書かれるのですか-
 作家によっては、すごく感情移入して書かれる方もいますが、私は、わりと、こう、上から、箱庭の中を見ているような感じで、僻轍しながら、書いてゆくというやり方です。

-南仏がお好きで、ラ・コストというところによく行くそうですが-
 ラ・コストというのは、ちょうど下条のようなところです。父が下条出身なのですが、ラ・コストもうねうねとした道があって、かわら屋根の家があり、柿の木に似た木があります。丘の上にお城があって、その下に家々が続き、その村には、郵便局が一つ、パン屋が一つ、酒屋が一軒という感じの、かわいい村です。

-最近飯田に行かれましたか-
 五年前、中学の同窓会で行き、あちこち歩きました。町としては好きです。でも市内はすごくさみしくなって、悲しかったです。なんとかしたいと思いました。

-同窓生にひとことお願いします-
 人生は短いので、やりたいことをやって頑張って生きましょう。

(帝国ホテル・マイセンサロンにて)
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【主な作品】
「ブルボンの封印」(上・下)、「ノストラダムスと王妃」、「マリー・アントワネットの遺言」、「逆光のメティチ」、「バスティーユの陰謀」、「ハブスプルクの宝剣」(上・下)、「侯爵サド」、「鑑定医シャルル、マリー・アントワネットの生涯」、「離婚まで」

(飯田風越高校同窓会 東京支部だより「かざこし」第23号より)

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緑の中で 子どもの本の創作に生きる(岸田衿子)

緑の中で 子どもの本の創作に生きる(岸田衿子)

 残暑のきびしい九月十一日、軽井沢で岸田衿子さんにお会いすることになりました。(岸田さんの住まいは浅間山麓の北、六里ヶ原、昔は軽井沢から草軽線で二時間かかった北軽井沢。現在は車で四十分ほど。)岸田さんは当時の飯田高女生の憧れの的だったとか。取材場所の小さいホテル「藤屋」のロビーで、私たちも胸をときめかせて岸田さんとの出会いを待っていました。現れた岸田さんは、ストローを編んだつばのある帽子に木綿のブラウスで、想像していたとおりのすてきな方でした。五十数年前の記憶をたどりながら、二時間以上も心をこめてお話して下さり、思わず時を忘れました。
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★疎開松本から飯田へ
 昭和十七年夏、衿子さんが立教女学院在学中のこと、お母様が亡くなり、戦争も激しくなってきたこともあって、それを機に農家のしっかりした主婦に預けたいというお父様のお考えから、松本の農家に姉妹二人で一年ほど預けられました。
 その後飯田へ移ることになったのは、「父も農村の生活を望んでいて、友人の日夏耿之介さんの遠縁の家をお借りできたからです。」「飯田や伊那谷を見て、父はとても気に入り、自分が昔旅行したチロルに似ている。伊那谷は雪山が見える谷間でも、とても広々として明るい、といっていました。」鼎村(現在の飯田市鼎)へ移ってからはお父様、妹の今日子さんと一緒に畑を借り、綿羊を飼いながら飯田女学校へ通いました。

★飯田高女を出て、東京美術学校(現芸大)へ
 飯田高女三年に編入したものの、戦争中のことで授業の思い出はほとんどなく、代わりによく思い出すのは、校庭で風船爆弾の風船になる和紙を何枚もはり合わせたこと、飯田病院へ行き、看護の実習をしたことなどです。「戦争中の女学生は皆看護婦の免許をとることが必要だったようですね。」個人的には隣村に疎開されていた画家の九里四郎先生(白樺派)から油絵の手ほどきを受け、そのことが絵の道へ進むきっかけとなりました。又ピアノは伊那市へ疎開されていた高木東六先生から直接指導を受けました。「あの頃のことは本当になつかしいことばかりですね。」女学校四年の頃陽転してしばらくは絵ばかり描いていましたが父国士氏と九里先生の勧めで東京美術学校予科を受験、合格します。本科で芸大と名称が変わり、梅原、安井両氏が教授で、あまりデッサンずれのしていない受験生をとったということです。

★父国士氏のこと、妹今日子さんのこと
 当時すでに著名な劇作家であった国士氏ですが、物のない時代、身体の弱かった衿子さんのために、東京まで出かけてわざわざ絵の具やキャンバスを探してきてくれました。子供の頃はとくに外遊びが好きだった衿子さんに対し、一つ違いの妹今日子さんは無類の本好きで、父親の書庫の本を読みふけっていました。今日子さんは女学校卒業後、母親のいない娘に生活の技術を身につけさせたいという国士氏の希望で自由学園に進みます。当時国士氏は飯田周辺の文化人と親交があり、日夏耿之介(詩人)、森田草平(小説家)、正宗得三郎(画家、白鳥の弟)ほか、地元の錚錚たる人達の集まる「清話会」とよぶ交流会の一員でした。

★絵から詩、そして子どもの本へ
 絵を描いていた衿子さんが詩を書きはじめたのは、、肺疾患の治療のため右肩がこって絵を描く腕に力が入らなくなったことと、もともと詩や童話が好きだったからです。それに幼な友達で詩人の谷川俊太郎氏の影響もありました。「俊太郎さんの山小屋も北軽にあって、戦争をはさんで久しぶりに山に行ったら、彼は早熟で初めての詩集をくれてね、次の詩集(62のソネット)のために書きはじめた十四行詩のノートも見せてくれたんです。それに中也や道造も好きでしたから私のはじめの詩集『忘れた秋』もソネットでした。」身体が弱くて、むしろ自分の二人の子どもを持つ前に絵本や童話を書きはじめ、芸大の時の友人中谷千代子さん(絵本画家)とのコンビで出版した本(「かばくん」「ジオジオのかんむり」など)は二十冊以上にも及んでいます。「あの頃、鼎から飯田まで歩いて通った道々で目にした美しい魅力的な山々や田園が少女期の私の絵心やうた心を刺激してくれたんですね。」

★緑の中で(衿子さんからのメッセージ)
 「今北軽井沢に住み、詩や子どもの本を書いています。最近つくづく思うことは、緑は子どもに染みこむということです。自然とじかにふれ合うことが子どもの目や心を鍛え豊かにしてくれますね。私自身これからも、あっちこっち残されたありのままの自然-地球をさがして子どものための作品を書き続けたいと思っているんです。」とことばを結んだ衿子さんは、子どもの幸せと健康を願い、暖かくみつめてゆこうとする童話作家の顔になられました。
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【プロフィール】
詩人、童話作家、日本文芸家協会会員。詩誌「櫂」同人詩集「クレヨンの歌」「ソナチネの本」「いそがなくてもいいんだよ」童話・絵本「かばくん」「かえってきたきつね」(以上サンケイ児童出版文化賞グランプリ)「ジオジオのかんむり」童話集「木いちごつみ」「へんなかくれんぼ」「森のはるなつあきふゆ」「どうぶつはいくあそぴ」など。音楽詩劇「オンディーヌ」(文部大臣賞、放送イタリア賞)「ポイパの川とポイパの木」(厚生大臣賞)テレビアニメ主題歌「アルプスの少女ハイジ」(レコード大賞特別賞)

(飯田風越高校同窓会 東京支部だより「かざこし」第20号より)

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