孫 泰蔵 著 「冒険の書」

著者は実兄がソフトバンクの創設者である孫正義氏である。そして氏自身も起業家としていくつもの企業を立ち上げ、ビジネス界で知らぬ人はいないほどの著名人である。また、巻頭言にあるように、氏はAIの開発企業にもかかわり、AIの進歩に自ら驚いているほど時代の先端を走っている人でもある。
そんな著者が「冒険」というタイトルで本を著した訳だが、決して若者にチャレンジを訴えるハウツー本でも、世界を旅せよというような自己啓発本でもない。では著者が言う冒険とは何だろう。
著者の冒険は「なぜ学校の勉強はつまらないのだろう」という素朴な問いから始まった。なにが原因でつまらなくなってしまったのか。そこで著者は「子ども」という概念の登場をさぐり、「学校」が生まれてきた歴史をたどる。自分の「問い」の答えを探す「冒険」に出たのである。「冒険」先にはまた新たな「問い」が生まれ、次の「冒険」にとつながっていく。

筆者がたどり着いた「冒険」は学びの本質に迫っていく。現代の学びとは「社会の役に立つ人間になるためのもの」であり、それは「能力」という得体のしれない考え方に由来しているという。現代社会を覆っている能力主義(メリトクラシー)とは「能力」によってその人の幸福度や地位が決まるという考え方で、そもそも産業社会において効率化や合理化をすすめるうえで求められたことが背景にある。一方で、「役に立つ能力」を獲得できない人たちは落ちこぼれ、社会は分断される。能力主義は、それは努力が足りないからと自己責任を問う。学校は能力主義を徹底するため、ますます子供たちはつまらない勉強に顔を暗くするという悪循環。このような学びの結果、「人間の機械化」がすすみ、一生懸命に優秀な機械になろうとしていると言う。しかし、今日学校で教えられている知識や技能はAIの普及によって早晩陳腐なものになっていく。ここで著者は大転換の可能性に言及する。すなわち、AIが人間を機械として働くことから解放してくれるかもしれないと。学校での学びにも変革がもたらされるだろうと。

筆者の「冒険」は現代社会が抱える病理を明らかにした。それは、社会の役に立つための能力を身につけることが、逆に荒んだ社会を生み出すことになるということだ。であるならば何を学んだらよいのか。ヒントになったのはマルセル・デュシャンの「自転車の車輪」というアート作品や荘子の説く「無用の用」、親鸞の説く「悪人正機」だ。人間が機械から脱するには「無意味」を否定し「だからこそ意味がある」という大いなる肯定や「無用の用」を育てる教育だという。世の中で無意味なことは何一つなく、効率や合理性ばかり追う社会では革新的な発明や発見は生まれない。無用の用を大切にできる社会では子供たちは学ぶ喜びを再び見出し、自立していく。筆者はさらに自立とは依存先を広げていくことだという。うーん、かなり冒険は深いところにたどりついた。
昨今、実用的な学問ばかりを奨励する国の文教政策とは裏腹に、無用の用を問う著者の姿勢に、改めて学びの本質とはなんだろうとを考えさせられた。最後に筆者は講演会のたびにこう締めくくる。「親の言うことは聞くな」。そのこころは読者にゆだねたい。