■ 論説 「快楽追求者としての若者」
様々な情報を容易に手に入れることの出来る現代。若者達は快楽をたやすく手にしている。快楽の対象となり得る物は即物的で、自らの想像力を働かせるという必要がない。主に男性は快楽を得るために直接的なつながりを求めている。しかし女性は反対にロマンティシズムを含む精神的なつながりを求めている人が多いのである。
現代の様な直接的な快楽を得ることの出来なかった時代の若者達はどうであったのか。
彼らは「チャタレイ夫人の恋人」に代表される類いの書物を読むなどしていた。書物の内容を自らイメージし、自分の世界の中でストーリーを生かすことにより欲望を満たしていた。しかし、それらの書物は純粋な文学として生み出されていたわけで、若者達に初めから快楽を与えるために作り出されていたのではない。当時の若者達は塁高なる文学作品を読む中で、そこに潜んでいるエロティシズムとニヒリズムに出会い、偶然にも欲求を満たすことができたのだ。
文学作品は彼らに快楽を与えると同時に彼らの想像力を養い、その内面を豊かにした。そして同じ文学を読むことを通して、女性と男性は共通の概念を持ち、物事を見ることが出来ていたのではないだろうか。
現代の主に男性陣は本能の欲求を満たすためにビジュアル的な物ばかりを追っているにすぎない。そして現代の女性には男性と同じ物を求めることがいやらしいことであるという概念があるため、男性とは異なって、快楽を書物などに求めている。彼女達の一部には見えない圧力によって抑制された欲望がより刺激の強い男性同士の愛というものを求めてしまっている人達がいる。彼女達は本来自分自身が手に入れたい精神的なつながりと、はかない愛の中に見出だせる美を物語に織り込んでいる。それを他の女性に与えることでお互いに満たしあっているのだ。
しかし、それは全くの空想の世界である。
話を戻すが清陵の伝統歌の一つに「ボロボロ校舎」という歌がある。この中に『若き我等のウェルテルの悩み』という一節があるのをご存じだろうか。これを読んで、この歌を作った時代の若者が何を謳っているのか理解出来る人は少ないだろう。これも彼らの青春時代、よく手にした書に関わりがあるのだが、機会があったら是非読んで欲しい一冊である。彼らの気持ちが理解出来るかもしれない。
容易に何でも手に入れることの出来る現代。即物的な物ばかりを追い求めがちな僕達であるが、時には時間をかけ、頭を使うことにより想像力を養い、より崇高なる快楽を手に入れるということがあってもいいのではないだろうか。人間として己をより深めることの出来る年齢にあたる僕達だからこそ、快楽の追求の仕方を見詰め直し、そのあり方を考えてみて欲しい。
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