古城の門
第1部 上田高校の前身「上田藩旧藩邸」
上田高校「古城の門」は江戸期上田城三の丸藩主居館の表御門(写真左)であった。
写真左の城郭が上田城本丸・二の丸、右上の郭が藩の作事場(現清明小)、右下の郭が藩主居館(現上田高校)である。校長室の壁には御屋形古図(旧藩邸屋敷図面)(写真中)が掲げられている。江戸時代の藩邸間取りと井戸位置が一目瞭然である。ここは歴史的な経緯から実質上上田城本丸として機能した真田氏・仙石氏・松平氏が藩政をおこなった政治の舞台であった。学校南側(写真右)にも細いながら濠があったことがわかる。藩邸と宿場町間にあった三の丸大水濠(外濠)は蛭沢川旧河道(湿地帯)を利用して堀削された。ここは上田宿商人と武家ゾーンの境界となり、大手門(現商工会議所)の枡形、桂旅館前、刀屋前枡形が武家ゾーン入口番所であった。
上田市内はゆるやかに東から西へ傾斜している。矢出沢川、蛭沢川は清明小、陸上競技場の窪地を流れていたと考えられる。上田城建造により蛭沢川と矢出沢川は北方へ流路を変更し上田城の外堀として使われた。上田高校濠は清明小より人工水路により給水されていた。南側に段丘崖がある上田城および藩邸は北側と東側に幅広い濠が作られた。外濠もまた並行して同様である。現在この外濠は埋め立てられ、道路区画でのみ遺構が確認されるにすぎない。
下の写真は隣接する市役所本館屋上から撮影したものである。上田高校の敷地と旧藩邸がほぼ同じであることがわかる。左奥の緑が古城の門周辺の大樹である。かつて周囲はすべて濠で囲まれていた。現在は古城の門の両側に2カ所濠が残されている。市役所側の濠は明治期に埋め立てられ現在は自転車置き場(写真左端)となっている。上田駅前に高層ホテルができ、下校時に昇降口から青いネオンがちらちら見える。
本校グランド(写真右端)は河岸段丘上で見晴らしがよい。かつて築山と池泉のある庭園で、藩主は塩田平をのぞみながら御茶屋で茶会をたのしんだことであろう。グランド奥にあった鋳物師、弓場を含め、今では全くその面影を追うことはできない。(上田二中改築工事で大発見があるかもしれない)
写真右端のグランド北の住宅は旧藩邸敷地で茶園があった場所と伝えられている。現在グランドからは長野新幹線・アリオ上田店・新市民会館(建設中)がよくみえる。河岸段丘上にある上田高校は標高457m。上田駅は約440mで段丘崖を17m昇る。現在上田高生の52%が電車通学で上田駅から徒歩で古城をくぐる。(小諸方面28%、千曲方面17%、別所線7%)駅前から厩であった上田温泉ホテル祥園脇の小路を歩き南から濠沿いを通って古城の門から通学する生徒が多い。蹴放をまたぐと気合いがはいるそうである。
第2部 上田高校のシンボル「古城の門」
古城の門は1789年消失後、翌年再建された。現在も正門として使用されている。朝7時に大扉が開門され高校生を迎える。
藩邸時代には通常は左右の潜戸(くぐりど)のみが使用され、大扉は城主のみ通行できた。現在は全く逆で潜戸は何年も開門されていなかった。(左扉は開く構造にない)藩邸図面によると潜戸を入ったすぐ右手(学校標柱)に通行人をチェックする番所があった。2013年7月2日潜戸を数十年ぶりに開門(写真左・中)した。 第56回松尾祭中に開門公開した。
屋根瓦(写真下右)には1706年から160年間藩主をつとめた松平氏の家紋「五三桐」が刻字されている。
濠には鯉と亀(写真下左)が生息し数を増やしている。最近早朝亀の行動範囲がひろがり、濠以外での目撃証言が相次いでいる。しかし鯰はめったにお目にかかれない。そのためなまずを見かけると成績があがるという生徒の伝承がある。またかつて白鳥が棲んでいたこともある。(当時写真募集)
本校班活動生徒のジャージは、真田氏家紋「六文銭」(写真下中)をプリントしていることが多い。
校歌2番の『関八州の精鋭をここに挫きし英雄の義心のあとは今もなほ松尾が丘の花と咲く。』を解けば明らかであろう。六文銭ロゴは人気で弓道班ジャージは観光客のブログに掲載されている。
写真左:軟式野球班(校章)、中:陸上競技班、右:ハンドボール班(六文銭)
真田氏家紋である六文銭はもともと仏教用語の「三途の川の渡し賃」である六道銭~死をもいとわない不惜身命の決意~を表現している。六文銭旗を採用している高校は、上田高校のほか松代高校、群馬県沼田高校である。いずれも真田家に深く由来している地に位置している高校である。
2012年、濠南側にポケットパークがつくられ、57期生が、卒業50周年記念事業で上田藩邸屋敷跡地であることを伝える「歴史関係説明碑」(写真下右)を母校に寄贈した。
旧藩邸玄関の唐破風屋根のある建造物は明治時代に上田市鍛治町本陽寺(写真下左)に移築され現存している。現ロータリーのところにあった建物である。かつて表門を入るとこの景観が目に入った。
本陽寺南隣(ツルヤ上田中央店北隣)の月窓寺は初代上田高の校地であった。古城の門を入った左側の土蔵(写真下中)は唯一の江戸時代の藩邸内建造物である。上の図面の勝手の中で「土蔵」と記されたもので、現在は校門付近に昭和54年移築保存され、合宿用食器などの倉庫となっている。
当時をしのぶものは敷地内の古井戸(写真下中)であろう。江戸藩主の炊事,湯殿用に使われた井戸は現在中庭(写真下左)にあり安全柵と蓋がつき、のぞくことはできないが、定時制棟脇の井戸(写真下中)は見ることができる。今でも約15m下には清らかな水を蓄えている。本丸井戸への抜け道がある伝承(?)もある。平成23年市役所側自転車置き場付近の地面が陥没し、調査したところ江戸期の図面にはない古井戸が新たにみつかった。(写真下右)裏門(北門)側の第2体育館と進路室の間の毎日通行している舗装部分にも井戸があった。現在やや円形に陥没してきていて心配である。
1812年設立した上田藩文武学校「明倫館」は上田二中となった。それにちなみ、本校格技室を「明倫館」、合宿所を「明倫舎」とよんでいる。門前の上田高校同窓会館と市役所駐車場はかつて藩邸前広場(防火帯)で、周囲に重臣の家老屋敷を配置していた。広場南の上田温泉周辺は厩で、現在でいうと公用車駐車場であろう。同窓会館北のNTT駐車場が馬の大手門への通路である。南西(裏鬼門)崖下にかつて千曲川(P1写真最上段図面:尼が淵)が流れていた。
藩主の川岸の舟港に下る緊急待避路が、段丘崖に現在でも狭い小路となって残り、生徒がアリオにいく絶好のルートとなっている。
- ※写真左は上田高校応援団長の高下駄である。平成18年スクールアイデンティティ「試百難」制定時に第28代藤本光世学校長から寄贈していただいたものである。下駄屋さんへの特注とのこと。六文銭のロゴが誇らしい。
第3部 上田高校の守護神「槐(えんじゅ)三代」
本校北東の方角の体育館脇には鬼門除けに槐(えんじゅ)の老木(写真左)が旧藩邸を守っている。生徒会誌松籟59号 小林一雄学校長~卒業生に贈る言葉~によると最も太い幹の西側と南側に離れて立っている木は子供の樹で、横に根を這わせ本体から1mほど壕側ある樹は孫に当たる。…長身の丈23m、本体の幹周りは4.5m。マメ科の植物で夏にめだたない白い花(写真右)をつける。親樹の幹の延命治療により樹勢は回復した。エンジュは木へんに漢字で鬼。…守護神としてふさわしい樹勢である。しかし体育館の陰でかつ高校の正面にないため生徒の記念写真にも写り込むことがほとんどない。守護神は目立たない場所でひそかに上田高校を見守っている。これら大樹は明治期の写真にも写っている。樹齢200年を超えているのではないだろうか。
下のこの写真は小県高等小学校時代の校舎(明治21年撮影)「上田高校百年史」 長野県上田高等学校創立百周年 より、「古城の門」と濠、築地塀(写真右)、えんじゅ、けやきの木が健在である。建築物は藩政時代のままである。同窓会館は当時まだ水田である。欅と桜に囲まれた古城の門周辺は「信州上田~歴史の薫る城下町」まちなか散策コースとして知られており、多くの観光客が訪れる。濠周辺はミニ公園化され夜間はライトアップされる。花の季節には多くの家族連れがゆっくりと散策を楽しんでいる。
上田駅お城口から生徒は毎日この門をくぐり通学している。入学式・卒業式は全クラス記念写真が撮影される思い出の場所でもある。夜間と休日は通常門扉を閉めている。(写真右)門標の「長野縣上田高等学校」は昭和38年秋、当時、新潟大教授石橋犀水先生に揮亳していただいたものである。門標が盗難に遭う前に籠字にしておいたものを80周年の記念事業の中で刻して復活した。この門は薬医門と呼ばれ、中世以降の武家、禅宗寺院に多く用いられた様式である。寛政2(179O)年、松平忠済時代に再建され、築223年を経過している。屋根瓦の部分的改修はあったが、ほぼ建築当時の重厚な面影を残している。高校周辺には「古城の門」と同世代の由緒ある武家屋敷の門(写真左:旧桂邸・写真中:旧三村邸)が点在している。築地塀は現在東側のみ健在である。塀は江戸期には竹でできた矢来(柵)であったが幕末文久年間(1863年)土塀に変更された。昭和12年石垣大改修。
昭和55年まで水辺に葦の茂る自然状態の池であった濠は、昭和55年(写真左)大規模改修工事があった。左写真は工事のようすである。濠を一旦土砂で埋め立て、濠の周囲を現在のような石垣組みとし、給水配管工事と排水枡の埋め込みを施行、桜並木と歩道を合体しミニ公園化された。(鉄柵から竹柵に後に再び改修)濠の深さは1mほどである。濠周辺の欅(写真右)は順調に生長し、数十年間大量の落ち葉を堆積させている。濠の水は江戸期には作事場濠から水路で濠の北東角から流入していたが、現在は敷地内井戸水をポンプでくみ上げ北西角から補給している。そのため水の循環が進まず、特に夏、水質汚濁が進み透明度が著しく低下していた。
平成25年給水パイプのメンテナンス後、給水量を増やす予定であったが、パイプの中に松の幹根が深く入り込んでいたため(写真左)作業は難航した。現在無事除去作業が終了し、濠への水量が増え水質改善が進行した。ここ数年真夏には濃いアオコに覆われたが、猛暑の2013年通常の透明度を保った。
築地塀150周年の2013年、新たな難問がおきた。塀辰巳端土塀(写真右)に亀裂が発見された。南東角の欅Aの大樹の幹根の成長によるものらしい。周囲を固める大樹の成長と文化財保護のバランスが今後の課題であろう。
★上田高校巨木の樹齢を考える。
写真左:欅A(辰巳濠合宿所) 高さ30m 推定樹齢200年 土塀の中にも根がひろがっている。
夜は野鳥のねぐらとなるためプールサイドの汚れが甚大である。
写真中:欅B(辰巳濠東道路) 道路にはみ出した幹根が削られたが成長に影響はない。
写真右:欅C(辰巳濠西中央)
欅D(辰巳濠ポケットパーク2010年に倒壊)
槐E(丑寅濠鬼門)高さ23m、本体幹周りは4.5m
写真左:エンジュ1世。鬼門を守る。延命治療あとが痛々しい。
写真中:エンジュ3世。北濠に沿ってもかつては築地塀があった。北濠(画面左下)に地下水が供給されている。
写真右:エンジュ2世。東濠の築地塀は健在である。
参考:山形県東根の大ケヤキ(日本一) 国特別天然記念物 樹高は28m、根回りは24m、直径5m。樹齢1000年以上1500年以上と推定。
第4部 上田高校「日本一格式高い校門」
現在、校門、築地塀、濠を併せて昭和44年に上田市文化財に指定されている。上田市文化財は現在84点が指定されている。(2013年現在)
プール(写真右)は築地塀に面して設置され周りに柵がない。(築地塀のあるプールは日本唯一の可能性?)生徒は築地塀をみながら水泳にはげむ。この位置は藩邸表大広間で、家臣を集めて藩主が訓示した場所である。御表の藩主居間は現在の学校食堂で、御奥の居間は第1体育館北側であった。明治維新による廃城後、城址は県庁・市役所・大学・高校など公共機関となった例が多い。全国で城址に建てられた高校は全国に数知れないが、現在でも日常使われている創建以来の格式高い門と大樹に囲まれた濠・土塀のある高校は数少ないのではないだろうか。
1994年青森県八戸市「根城」の本丸主殿が復元された。杭跡など遺構の11年間におよぶ発掘調査により「史跡根城の広場」として整備された。根城復元より上田旧藩邸の江戸時代の姿を想像してみよう。現存していたらこのような建造物があったと仮定する。(ただし上田旧藩邸は瓦葺き)奥、勝手はこのような建造物であったかもしれない。
上左:主殿、勝手通路(第1体育館通路付近)、上右:表広間(現定時制棟・プール)藩主の公的な政治の舞台で正門を入りすぐ左側にあった。下左より:中馬屋(上田温泉ホテル祥園周辺)、番所(国旗掲揚塔付近)、武器の修理など工房(グランド内野付近)、野鍛冶場(テニスコート付近) ☆写真はすべて根城、( )は上田旧藩邸の現在の位置
国指定重要文化財小諸城三之門が1765年再建である。東京大学赤門は1827年建設された薬医門である。古城の門は赤門より37年早く、小諸城より25年遅いが同様に趣が深い。
※江戸時代に起源をもつ武家(あるいは城)の門の現存している高校を以下にあげた。
茨城県立水戸第一高等学校、千葉県立大多喜高等学校、長野県上田高等学校、京都府立園部高等学校、愛媛県立西条高等学校、佐賀県立鹿島高等学校、長崎県立五島高等学校
★古城の門のある高校その1★
愛媛県立西条高等学校
西条藩陣屋跡(2013年8月撮影)「水の郷、水の都」伊予西条~ 西条市指定史跡
高校は方形区画の主郭で水堀に囲まれた陣屋跡にたつ。東側の幅40mの広い水堀(噴水あり)には土橋が架かり大手門と腰巻土塁は現在西条高等学校正門として使用されている。平成14年解体修理がおこなわれた。冬季と行事にはライトアップ。
北御門(移築)現存。東側以外の三方向の堀は幅5m。かつては海水であった。現在は真水で、「うちぬき」と呼ばれる名水が噴き出し、鯉の住む水堀は清流のよう。大手門は「御殿前通り」と呼ばれ、隣接して市役所があり、行政の中心地となっている。
★古城の門のある高校その2★
佐賀県立鹿島高等学校
鹿島城址赤門(2013年9月撮影)「朱塗りの赤門」~ 佐賀県指定重要文化財 1807年高台に築城された鹿島城の北には現在でも大手門と折れ曲がった鍵型の道のある武家屋敷そして赤門がある。 鹿島高校(1896年創立佐賀県2番目に古い)は本丸に建ち、朱塗りの赤門(1808年建造)を正門として使用している。佐賀の乱(1874年)で焼失を唯一免れた。高校の北と東に水濠がある。鹿城生「赤門祭」は赤・白・紫の三軍に分かれて優勝を競い合う。
学校東側の二の丸は旭が丘公園で佐賀県三大桜の名所(1862年植樹)として市民の憩いの場となっている。
第56回松尾祭 全校製作 古城の門
爪楊枝18万本を使って図柄を30ブロックにわけ全日制定時制全クラスで分担し制作しました。
2012年10月撮影 新生徒会役員
古城の門は1年に松尾祭期間のみ、趣向を凝らした装飾がされます。