学校紹介

古城の門

第2部 上田高校のシンボル「古城の門」

 古城の門は1789年消失後、翌年再建された。現在も正門として使用されている。朝7時に大扉が開門され高校生を迎える。
藩邸時代には通常は左右の潜戸(くぐりど)のみが使用され、大扉は城主のみ通行できた。現在は全く逆で潜戸は何年も開門されていなかった。(左扉は開く構造にない)藩邸図面によると潜戸を入ったすぐ右手(学校標柱)に通行人をチェックする番所があった。2013年7月2日潜戸を数十年ぶりに開門(写真左・中)した。 第56回松尾祭中に開門公開した。
 屋根瓦(写真下右)には1706年から160年間藩主をつとめた松平氏の家紋「五三桐」が刻字されている。
濠には鯉と亀(写真下左)が生息し数を増やしている。最近早朝亀の行動範囲がひろがり、濠以外での目撃証言が相次いでいる。しかし鯰はめったにお目にかかれない。そのためなまずを見かけると成績があがるという生徒の伝承がある。またかつて白鳥が棲んでいたこともある。(当時写真募集)
本校班活動生徒のジャージは、真田氏家紋「六文銭」(写真下中)をプリントしていることが多い。
校歌2番の『関八州の精鋭をここに挫きし英雄の義心のあとは今もなほ松尾が丘の花と咲く。』を解けば明らかであろう。六文銭ロゴは人気で弓道班ジャージは観光客のブログに掲載されている。
写真左:軟式野球班(校章)、中:陸上競技班、右:ハンドボール班(六文銭)
真田氏家紋である六文銭はもともと仏教用語の「三途の川の渡し賃」である六道銭~死をもいとわない不惜身命の決意~を表現している。六文銭旗を採用している高校は、上田高校のほか松代高校、群馬県沼田高校である。いずれも真田家に深く由来している地に位置している高校である。
2012年、濠南側にポケットパークがつくられ、57期生が、卒業50周年記念事業で上田藩邸屋敷跡地であることを伝える「歴史関係説明碑」(写真下右)を母校に寄贈した。
旧藩邸玄関の唐破風屋根のある建造物は明治時代に上田市鍛治町本陽寺(写真下左)に移築され現存している。現ロータリーのところにあった建物である。かつて表門を入るとこの景観が目に入った。
本陽寺南隣(ツルヤ上田中央店北隣)の月窓寺は初代上田高の校地であった。古城の門を入った左側の土蔵(写真下中)は唯一の江戸時代の藩邸内建造物である。上の図面の勝手の中で「土蔵」と記されたもので、現在は校門付近に昭和54年移築保存され、合宿用食器などの倉庫となっている。
当時をしのぶものは敷地内の古井戸(写真下中)であろう。江戸藩主の炊事,湯殿用に使われた井戸は現在中庭(写真下左)にあり安全柵と蓋がつき、のぞくことはできないが、定時制棟脇の井戸(写真下中)は見ることができる。今でも約15m下には清らかな水を蓄えている。本丸井戸への抜け道がある伝承(?)もある。平成23年市役所側自転車置き場付近の地面が陥没し、調査したところ江戸期の図面にはない古井戸が新たにみつかった。(写真下右)裏門(北門)側の第2体育館と進路室の間の毎日通行している舗装部分にも井戸があった。現在やや円形に陥没してきていて心配である。
1812年設立した上田藩文武学校「明倫館」は上田二中となった。それにちなみ、本校格技室を「明倫館」、合宿所を「明倫舎」とよんでいる。門前の上田高校同窓会館と市役所駐車場はかつて藩邸前広場(防火帯)で、周囲に重臣の家老屋敷を配置していた。広場南の上田温泉周辺は厩で、現在でいうと公用車駐車場であろう。同窓会館北のNTT駐車場が馬の大手門への通路である。南西(裏鬼門)崖下にかつて千曲川(P1写真最上段図面:尼が淵)が流れていた。
藩主の川岸の舟港に下る緊急待避路が、段丘崖に現在でも狭い小路となって残り、生徒がアリオにいく絶好のルートとなっている。

※写真左は上田高校応援団長の高下駄である。平成18年スクールアイデンティティ「試百難」制定時に第28代藤本光世学校長から寄贈していただいたものである。下駄屋さんへの特注とのこと。六文銭のロゴが誇らしい。
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