令和2年度卒業証書授与式・閉校式がおこなわれました

令和3年3月6日 佐久市駒の里ふれあいセンターにて、令和2年度卒業証書授与式・閉校式が行われました。

望月高校最後の卒業式ということで、先生方の直前打ち合わせも綿密に。

 

最後の卒業生は2クラス18名。それぞれのクラス代表が卒業証書を受け取りました。

 

卒業生代表挨拶は佐藤翼さん。サプライズで先生へ一輪花をプレゼントしてくれました。

 

同日、閉校式も行われました。来賓の方々からのご挨拶は閉校する望月高校との別れを惜しみつつ、同校校舎にて昨年開設された長野西高校望月サテライト校の発展を願う前向きな希望にあふれたものでした。

 

城田校長からも閉校にあたり挨拶を述べさせて頂きました。以下にご紹介致します


感謝と御礼

本校玄関前の枝垂れ桜のつぼみも日に日に膨らみ、陽射しには穏やかな春の気配が感じられる季節となりました。

95年の長きにわたり、ここ望月地域の伝統校として発展してまいりました望月高校が、本年3月をもって閉校するにあたり御挨拶申し上げます。

はじめに、本校ゆかりのすべての皆様に、これまで本校の教育活動推進のため御尽力と御支援をいただきましたことに心から御礼申し上げます。

顧みますと、本校は中等教育の拠点として地元の強い要望と県の奨励もあり大正15年4月、ここ「ひばりが丘」の地に望月実科高等女学校が開校されました。その後、昭和6年に普通教育を学ぶ望月高等女学校と改称組織変更され、昭和十七年には男子の中等教育学校として望月中学校が併設されました。昭和23年の学制改革により望月高等女学校は望月高等学校、望月中学校は川西高等学校となり昭和24年両校は統合、県立移管して現在の長野県望月高等学校となりました。

統合当初の様子は、昭和26年6月15日創刊以来の「望月高校新聞」に詳細に掲載され、生徒会組織や校旗、校歌の作成など新たな学校づくりの躍動に満ちた様子が伺えます。本校の校歌「霧深き鹿曲のほとり」ではじまる歌詞は当時2年生だった中村実さんの詩が元になっております。生徒会組織が立ち上がるとクラブ活動も活発となり、運動部では昭和30年代、篭球部が県代表として関東大会に出場、特に女子卓球部は昭和34年から40年にかけて県大会で7年連続優勝を果たし、その後50年代全国大会入賞、遂に昭和56年の「びわこ国体」では悲願の優勝を果しております。 卓球の強豪校として全国にその名を馳せ黄金時代を築きました。

また、文化部での活躍も著しく、現代書道の父「比田井天来」生誕の地にある本校は、広く書に触れる機会も多く、近年では書道部生徒が、長野県開催の全国総文祭大会テーマ文字を揮毫しており記憶に新しいところであります。

本校は、創立以来地域の皆様のご理解とご支援をいただきながら様々な活動を行ってまいりました。平成17年に発足した「望月教育プラットホーム」の学びへの支援は、その後の授業改善を一層推進し、生徒の深い学び合いに繋がっていきました。また、ひばりが丘アカデミー、朝の挨拶運動、町内清掃、望月学、いのちの駅伝など様々な活動をとおして地域とともに歩み、その都度多大な御尽力と御支援を賜りましたことに心から敬意と感謝を申し上げます。中山道の宿場町として栄え、平安時代から駒の里として知られた歴史と文化が色濃く残るこの地域で、私たちが学べたことは大変誇りに思うところです。

時代は急速に変化し、少子化による生徒数の減少と学校教育力の維持や魅力ある学校づくりが課題となり、県全体としての高校改革の時代を迎えました。現在は、将来の少子化の進行と時代の変化に対応した教育を推進する学びの改革基本構想が策定され再編・整備計画が進んでおります。

この中で、第一期長野県高等学校再編計画により、本校は95年の歴史に幕を閉じることになりますが、創立から現在に至るまで、1万2千有余名の卒業生がこの地で青春の思い出を刻み、「質実剛健」の気風のもと日々切磋琢磨しあいながら学んだ輝かしい歴史と伝統は末永く語り継がれることと存じます。

昨年4月長野西高校望月サテライト校が、この学び舎に開設されました。通信教育の新たな学びの場として、地域の支援をいただきながら高校教育の拠点となることを願っております。

これまで「望月高校」を愛し、その発展に御尽力を賜りましたすべての皆様に感謝と御礼を申し上げ、ご健康と益々の御活躍を祈念いたしまして、挨拶とします。今まで、多くのご声援誠にありがとうございました。

令和3年3月6日
  長野県望月高等学校長 城田 真之